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午前中だけのはずだった
昭和五十年代の話である。
当時、私は医学部の学生で、勉強漬けの日々を送っていた。そんなある日、教授からアルバイトを頼まれた。
それまで経験したアルバイトといえば学習塾の講師くらいだったが、普段から世話になっている教授に「簡単だから」と言われ、私は深く考えもせず、即座に「わかりました」と返事をした。
午前中だけの仕事で、しかも当時としては考えられないほどの高時給だった。それも、引き受けた大きな理由だった。
バイト先は、名門製薬会社の新入社員内定者を対象にした健康診断の会場だった。バブル前夜、企業の業績も上向いていた時期である。
この健康診断で何か問題が見つかれば、内定取り消しになる可能性もあるらしい。内定者にとっては、人生を左右しかねない大事な検査だった。
会社の大きな会議室には、身長計、視力検査表、血圧計などが所狭しと並べられていた。検査は流れ作業のように進む仕組みになっており、最後には簡易的な囲いで仕切られた小部屋まで用意されていた。
会場には、私のほかに、いかにも場慣れした中年の看護婦が数名いた。彼女たちは手際よく器具を確認し、書類を並べ、私のほうにはちらりと目をやるだけだった。白衣姿の女性たちの中で、医学生とはいえ若い男は私ひとりで、どうにも居心地が悪かった。
私に割り当てられたのは、最初の身長、体重、座高を測るだけの係だった。なるほど、教授の言った通り、たしかに簡単そうだった。
身長計のそばで待っていると、ぞろぞろと男子学生たちが入ってきた。おそらく薬学部出身なのだろう。体格はさまざまだったが、皆、白いブリーフ一枚の姿だった。
私は少し面食らいながらも、一人ずつ身長計に立たせ、身長、体重、座高を測っていった。続いて巻き尺で胸囲と腹囲を測る。学習塾の講師とは、ずいぶん勝手の違うアルバイトだったが、数人こなすうちに手順にも慣れてきた。
昭和五十年代とはいえ、背が低いとか、体重が多すぎるとかいう理由で内定が取り消されることはないだろう。学生たちもそのあたりは分かっているのか、終始、和気あいあいとしていた。
ただ、後半の血圧測定のあたりでは少しざわついていた。基準値を超える高血圧の学生でもいたのかもしれない。
彼らは私より、ほんの一、二年上の学年である。こちらも親近感を覚え、軽口を交わしながら作業を進めた。そんな調子で午前中の仕事は無事に終わった。
終了後、用意されていた弁当を食べ終えると、私は教授のもとへ行った。
「簡単なバイトを紹介してくださって、ありがとうございました。バイト代は手渡しと聞いているのですが……」
そう言って、笑顔で手を差し出した。
ところが、教授はなぜか困ったような顔をした。
「時間があるなら、午後もやっていかないか」
「時間はありますが……午後は女学生ですよね。私がいてもいいのでしょうか」
「君は医者になるんだろう」
教授の声が、少し低くなった。
[ 続く ]
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当時、私は医学部の学生で、勉強漬けの日々を送っていた。そんなある日、教授からアルバイトを頼まれた。
それまで経験したアルバイトといえば学習塾の講師くらいだったが、普段から世話になっている教授に「簡単だから」と言われ、私は深く考えもせず、即座に「わかりました」と返事をした。
午前中だけの仕事で、しかも当時としては考えられないほどの高時給だった。それも、引き受けた大きな理由だった。
バイト先は、名門製薬会社の新入社員内定者を対象にした健康診断の会場だった。バブル前夜、企業の業績も上向いていた時期である。
この健康診断で何か問題が見つかれば、内定取り消しになる可能性もあるらしい。内定者にとっては、人生を左右しかねない大事な検査だった。
会社の大きな会議室には、身長計、視力検査表、血圧計などが所狭しと並べられていた。検査は流れ作業のように進む仕組みになっており、最後には簡易的な囲いで仕切られた小部屋まで用意されていた。
会場には、私のほかに、いかにも場慣れした中年の看護婦が数名いた。彼女たちは手際よく器具を確認し、書類を並べ、私のほうにはちらりと目をやるだけだった。白衣姿の女性たちの中で、医学生とはいえ若い男は私ひとりで、どうにも居心地が悪かった。
私に割り当てられたのは、最初の身長、体重、座高を測るだけの係だった。なるほど、教授の言った通り、たしかに簡単そうだった。
身長計のそばで待っていると、ぞろぞろと男子学生たちが入ってきた。おそらく薬学部出身なのだろう。体格はさまざまだったが、皆、白いブリーフ一枚の姿だった。
私は少し面食らいながらも、一人ずつ身長計に立たせ、身長、体重、座高を測っていった。続いて巻き尺で胸囲と腹囲を測る。学習塾の講師とは、ずいぶん勝手の違うアルバイトだったが、数人こなすうちに手順にも慣れてきた。
昭和五十年代とはいえ、背が低いとか、体重が多すぎるとかいう理由で内定が取り消されることはないだろう。学生たちもそのあたりは分かっているのか、終始、和気あいあいとしていた。
ただ、後半の血圧測定のあたりでは少しざわついていた。基準値を超える高血圧の学生でもいたのかもしれない。
彼らは私より、ほんの一、二年上の学年である。こちらも親近感を覚え、軽口を交わしながら作業を進めた。そんな調子で午前中の仕事は無事に終わった。
終了後、用意されていた弁当を食べ終えると、私は教授のもとへ行った。
「簡単なバイトを紹介してくださって、ありがとうございました。バイト代は手渡しと聞いているのですが……」
そう言って、笑顔で手を差し出した。
ところが、教授はなぜか困ったような顔をした。
「時間があるなら、午後もやっていかないか」
「時間はありますが……午後は女学生ですよね。私がいてもいいのでしょうか」
「君は医者になるんだろう」
教授の声が、少し低くなった。
[ 続く ]
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