作品紹介
僕は冴えない会社の山下
いつもながらに仕事できないっぷりに拍車がかかる
「山下くん、ここの曜日。日付と合ってないかも」
石原さんに言われて、僕は印刷した案内状を見直した。
まただ。
二十三歳にもなって、確認したつもりの書類にこんな間違いを残す。隣の席の石原さんは、僕が十分かけて迷うことを、電話に出ながら片づけてしまう。
「すみません。すぐ直します」
「うん。まだ発送する前だから大丈夫。直したら、もう一回見せてね」
僕が謝ると、石原さんはいつも、次に何をすればいいか教えてくれた。
優しくされるたびに嬉しくなって、あとから情けなくなる。きっと石原さんにとっては、手のかかる後輩に普通に接しているだけだ。
それでも僕は、その普通の優しさが好きだった。
もちろん、本人には言えない。
仕事の確認をお願いするだけでも声が裏返りそうになるのに、好きです、なんて。
その日の夕方、修正した案内状を印刷していると、石原さんの席から課長の声がした。
「石原ちゃん、今日はどう? たまには二人で飲もうよ」
振り向くと、課長が彼女の机の脇に立っていた。腹の出た、中年の男だ。空いている椅子の背に手を置いて、石原さんの返事を待っている。
またか、と思った。
「すみません。今日も行かないです」
石原さんは、パソコンから顔を上げて答えた。
「今日もってさあ。毎回断られると、さすがに傷つくな」
「でも、二人では行かないので」
その声は穏やかだった。
課長は笑っていたけれど、石原さんはもう笑っていなかった。マウスに置いた手が止まったままで、ちらっと通路のほうを見る。
僕には、困っているように見えた。
断ってるんだから、もういいだろ。
プリンターから出てきた紙を揃えながら、頭の中でだけ言った。
石原さんが僕に「大丈夫」と言うときの声を、あの人が勝手に自分への親しさだと思っている気がして、それも腹が立った。
でも、僕だって彼女の優しさに勝手に期待している。
そう気づいて、余計に嫌な気分になった。
「一時間だけでもさ。そんな警戒しなくても——」
「石原さん」
思ったより大きな声が出た。
二人がこちらを向いて、急に喉が詰まる。
「あの……直した案内状、確認してもらってもいいですか」
紙を持つ手に、変な力が入っていた。
課長は僕を見て、軽く鼻で笑った。
「お前、まだそれやってたの?」
何も返せなかった。実際、まだそれをやっていたから。
「出す前に見せてもらうことになってたんです」
石原さんがそう言って、椅子を引いた。
「山下くん、そっちで確認しようか」
僕の机まで来た石原さんは、案内状を受け取る前に、小さく息を吐いた。
課長は少しその場に立っていたけれど、やがて自分の席に戻っていった。
「……大丈夫ですか」
僕が聞くと、石原さんは課長のほうを一度見てから、声を落とした。
「うん。ただ、断ったらそこで終わりにしてほしいよね」
「そうですよね」
もっと気の利いたことを言いたかった。
いつもあんな感じなんですか、とか、嫌なら誰かに相談したほうが、とか。いくつか浮かんだけれど、どれも僕が偉そうに言えることではない気がした。
「確認、ちょうどよかった。ありがとう」
その一言で、胸が熱くなった。
僕は案内状を指さして、曖昧に頷くことしかできなかった。
石原さんは紙に目を落とすと、すぐにいつもの顔に戻った。
「うん、曜日は直ってる。宛名も大丈夫」
「はい」
「次からは、印刷する前にカレンダーと並べて見るといいよ。私も昔、同じ間違いしたから」
本当だろうか。
石原さんにも、こんなことで何度もつまずく時期があったのだろうか。
「……ちゃんと覚えます」
「うん。じゃあ、発送の準備お願いね」
彼女は僕の机に紙を置いて、自分の席へ戻っていった。
その背中を、少しだけ目で追った。
課長への苛立ちは、まだ残っていた。石原さんが困っていたことにも、あの人が彼女と二人で飲みに行こうとしていたことにも腹が立つ。その二つを、僕はうまく分けられなかった。
好きだと言える予定なんて、どこにもない。
明日もきっと、僕は何かを聞きに行く。石原さんは答えてくれる。僕はそれを嬉しく思ってしまう。
せめて、今日教わったことは忘れたくなかった。
机のカレンダーを手元に引き寄せて、発送する案内状の日付を、もう一度確かめた。
いつもながらに仕事できないっぷりに拍車がかかる
「山下くん、ここの曜日。日付と合ってないかも」
石原さんに言われて、僕は印刷した案内状を見直した。
まただ。
二十三歳にもなって、確認したつもりの書類にこんな間違いを残す。隣の席の石原さんは、僕が十分かけて迷うことを、電話に出ながら片づけてしまう。
「すみません。すぐ直します」
「うん。まだ発送する前だから大丈夫。直したら、もう一回見せてね」
僕が謝ると、石原さんはいつも、次に何をすればいいか教えてくれた。
優しくされるたびに嬉しくなって、あとから情けなくなる。きっと石原さんにとっては、手のかかる後輩に普通に接しているだけだ。
それでも僕は、その普通の優しさが好きだった。
もちろん、本人には言えない。
仕事の確認をお願いするだけでも声が裏返りそうになるのに、好きです、なんて。
その日の夕方、修正した案内状を印刷していると、石原さんの席から課長の声がした。
「石原ちゃん、今日はどう? たまには二人で飲もうよ」
振り向くと、課長が彼女の机の脇に立っていた。腹の出た、中年の男だ。空いている椅子の背に手を置いて、石原さんの返事を待っている。
またか、と思った。
「すみません。今日も行かないです」
石原さんは、パソコンから顔を上げて答えた。
「今日もってさあ。毎回断られると、さすがに傷つくな」
「でも、二人では行かないので」
その声は穏やかだった。
課長は笑っていたけれど、石原さんはもう笑っていなかった。マウスに置いた手が止まったままで、ちらっと通路のほうを見る。
僕には、困っているように見えた。
断ってるんだから、もういいだろ。
プリンターから出てきた紙を揃えながら、頭の中でだけ言った。
石原さんが僕に「大丈夫」と言うときの声を、あの人が勝手に自分への親しさだと思っている気がして、それも腹が立った。
でも、僕だって彼女の優しさに勝手に期待している。
そう気づいて、余計に嫌な気分になった。
「一時間だけでもさ。そんな警戒しなくても——」
「石原さん」
思ったより大きな声が出た。
二人がこちらを向いて、急に喉が詰まる。
「あの……直した案内状、確認してもらってもいいですか」
紙を持つ手に、変な力が入っていた。
課長は僕を見て、軽く鼻で笑った。
「お前、まだそれやってたの?」
何も返せなかった。実際、まだそれをやっていたから。
「出す前に見せてもらうことになってたんです」
石原さんがそう言って、椅子を引いた。
「山下くん、そっちで確認しようか」
僕の机まで来た石原さんは、案内状を受け取る前に、小さく息を吐いた。
課長は少しその場に立っていたけれど、やがて自分の席に戻っていった。
「……大丈夫ですか」
僕が聞くと、石原さんは課長のほうを一度見てから、声を落とした。
「うん。ただ、断ったらそこで終わりにしてほしいよね」
「そうですよね」
もっと気の利いたことを言いたかった。
いつもあんな感じなんですか、とか、嫌なら誰かに相談したほうが、とか。いくつか浮かんだけれど、どれも僕が偉そうに言えることではない気がした。
「確認、ちょうどよかった。ありがとう」
その一言で、胸が熱くなった。
僕は案内状を指さして、曖昧に頷くことしかできなかった。
石原さんは紙に目を落とすと、すぐにいつもの顔に戻った。
「うん、曜日は直ってる。宛名も大丈夫」
「はい」
「次からは、印刷する前にカレンダーと並べて見るといいよ。私も昔、同じ間違いしたから」
本当だろうか。
石原さんにも、こんなことで何度もつまずく時期があったのだろうか。
「……ちゃんと覚えます」
「うん。じゃあ、発送の準備お願いね」
彼女は僕の机に紙を置いて、自分の席へ戻っていった。
その背中を、少しだけ目で追った。
課長への苛立ちは、まだ残っていた。石原さんが困っていたことにも、あの人が彼女と二人で飲みに行こうとしていたことにも腹が立つ。その二つを、僕はうまく分けられなかった。
好きだと言える予定なんて、どこにもない。
明日もきっと、僕は何かを聞きに行く。石原さんは答えてくれる。僕はそれを嬉しく思ってしまう。
せめて、今日教わったことは忘れたくなかった。
机のカレンダーを手元に引き寄せて、発送する案内状の日付を、もう一度確かめた。