作品紹介
別の日。
郁夫は次の日曜日の予定を潰すために、全力を注いだ。
悠真を呼び出すと、書類を机に置きながら切り出した。
「悠真。主任への昇進研修の出張、お前に話がある。来週末、二泊三日で行くことになる。推薦したのは俺だ。チャンスだぞ」
悠真の表情が、わずかに動いた。配送の現場から主任へ上がる機会は、そう多くない。欲しくないわけがなかった。
「……その週は、少し予定が」
「予定? 昇進の話より優先するつもりか? 他のやつに回すこともできるが」
渋い顔をしながらも、悠真は結局、首を縦に振った。断れる空気ではなかった。
それからというもの、郁夫からの残業指示が日に日に増えていった。細かい確認作業や、本来なら翌日でいい伝票整理を「今日中にやれ」と命じられる。悠真は黙々とこなしたが、帰宅はどんどん遅くなり、疲労が顔に出始めた。
菜月への連絡も、自然と減っていった。
そして、約束していた再来週の日曜日。
悠真から短いメッセージが届く。
『出張で無理になった。すまない』
菜月はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。また、破られた。
確信はない。ただ、「もしかしたら」という疑心が、少しずつ形を持ち始めていた。
元から返信が遅い悠真の連絡が、いっそう遅く感じられる日々。そんな中に届いたのは、郁夫からのLINEだった。
『軽い飲み、どうだ? 話聞くだけだから』
普段の菜月なら、有無を言わさず断っていた。上司の、しかもあの男からの誘いだ。だが、なぜか指が止まらなかった。悠真のことを、少しでも聞けるかもしれない——そんな思いが、胸の端にあったのかもしれない。
結局、菜月は誘いに乗ってしまった。
郁夫が指定した店は、駅前のチェーン居酒屋だった。個室でもなく、いやらしい雰囲気のない、シンプルな大衆店。照明も明るく、周囲には他の客の話し声が聞こえる。
二人で席に着き、まずは生ビールで乾杯する。郁夫は意外なほど穏やかで、他愛のない話から入った。仕事の愚痴を少し交えつつ、悠真の話も控えめに出した。
「あいつ、最近残業多くて疲れてるみたいだな。無口なのは相変わらずだが」
菜月は慣れない相手に少し緊張しながらも、ほどほどに会話を合わせた。酒が進むにつれ、肩の力が少し抜けていく。郁夫はあくまで「話を聞いてあげる」という態度を崩さず、下ネタや露骨な視線も出さなかった。
十一時ちょうど。
「今日はここまでにしよう。遅くなると悪いし」
郁夫がそう言って会計を済ませ、店を出た。駅までの道も、特に何かを求められることもなく、普通に歩いて解散した。
菜月は一人になった電車の中で、小さく息を吐いた。
(……意外と、普通だった)
いやらしさのない、健全な飲み。郁夫の「話を聞くだけ」という言葉通りの時間に、少しだけ安心してしまった自分に、菜月は気づいていた。
郁夫は次の日曜日の予定を潰すために、全力を注いだ。
悠真を呼び出すと、書類を机に置きながら切り出した。
「悠真。主任への昇進研修の出張、お前に話がある。来週末、二泊三日で行くことになる。推薦したのは俺だ。チャンスだぞ」
悠真の表情が、わずかに動いた。配送の現場から主任へ上がる機会は、そう多くない。欲しくないわけがなかった。
「……その週は、少し予定が」
「予定? 昇進の話より優先するつもりか? 他のやつに回すこともできるが」
渋い顔をしながらも、悠真は結局、首を縦に振った。断れる空気ではなかった。
それからというもの、郁夫からの残業指示が日に日に増えていった。細かい確認作業や、本来なら翌日でいい伝票整理を「今日中にやれ」と命じられる。悠真は黙々とこなしたが、帰宅はどんどん遅くなり、疲労が顔に出始めた。
菜月への連絡も、自然と減っていった。
そして、約束していた再来週の日曜日。
悠真から短いメッセージが届く。
『出張で無理になった。すまない』
菜月はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。また、破られた。
確信はない。ただ、「もしかしたら」という疑心が、少しずつ形を持ち始めていた。
元から返信が遅い悠真の連絡が、いっそう遅く感じられる日々。そんな中に届いたのは、郁夫からのLINEだった。
『軽い飲み、どうだ? 話聞くだけだから』
普段の菜月なら、有無を言わさず断っていた。上司の、しかもあの男からの誘いだ。だが、なぜか指が止まらなかった。悠真のことを、少しでも聞けるかもしれない——そんな思いが、胸の端にあったのかもしれない。
結局、菜月は誘いに乗ってしまった。
郁夫が指定した店は、駅前のチェーン居酒屋だった。個室でもなく、いやらしい雰囲気のない、シンプルな大衆店。照明も明るく、周囲には他の客の話し声が聞こえる。
二人で席に着き、まずは生ビールで乾杯する。郁夫は意外なほど穏やかで、他愛のない話から入った。仕事の愚痴を少し交えつつ、悠真の話も控えめに出した。
「あいつ、最近残業多くて疲れてるみたいだな。無口なのは相変わらずだが」
菜月は慣れない相手に少し緊張しながらも、ほどほどに会話を合わせた。酒が進むにつれ、肩の力が少し抜けていく。郁夫はあくまで「話を聞いてあげる」という態度を崩さず、下ネタや露骨な視線も出さなかった。
十一時ちょうど。
「今日はここまでにしよう。遅くなると悪いし」
郁夫がそう言って会計を済ませ、店を出た。駅までの道も、特に何かを求められることもなく、普通に歩いて解散した。
菜月は一人になった電車の中で、小さく息を吐いた。
(……意外と、普通だった)
いやらしさのない、健全な飲み。郁夫の「話を聞くだけ」という言葉通りの時間に、少しだけ安心してしまった自分に、菜月は気づいていた。