作品紹介
日曜の朝、ふみかは洗濯物を干してから、カフェで彼と待ち合わせた。
彼氏は31歳。ビルの設備点検の仕事をしていて、休みは不規則なのに、ふみかと会う週1回の約束は、付き合って1年8か月、ほとんど欠かしたことがない。
「今日は古本屋のあと、銭湯?」
「うん。あと、その前にかた焼きそば。ずっと気になってた店」
「ふみか、本と紙と銭湯があれば、大体幸せだよな」
笑われて、ふみかも笑った。一緒にいるとよく笑う。結婚の話がまったくないわけじゃない。でも今すぐ同棲したいわけでもなく、このちょうどいい距離感が、二人には心地よかった。
古本屋で彼は、ふみかが手に取った1990年代の雑誌を覗き込んだ。
「また紙の本買うの?」
「紙に触れてる時間が、一番落ち着くんだもん」
「知ってる」
何かを押しつけてこない人だった。ふみかが夢中になっていると、隣で静かに待っていてくれる。だからこそ、ふみかはこの関係を大事にしていた。

月曜日。製本会社。
試作品を確認しに来た森山盛夫が、帰り際、また言った。
「榎並さん、今週どこかで食事でも。かた焼きそばの美味い店、知ってるんですよ」
「ありがとうございます。でも、仕事以外ではご一緒しないようにしてるんです」
「固いなあ。一度くらい、いいでしょう」
「すみません。本当に、そういうのは」
はっきり断った。けれど森山は傷ついた顔どころか、にやっと笑った。
「照れてるだけでしょう。本当は悪い気してないくせに」
「……してます。困ってます」
言葉を強くすると、彼はようやく「じゃあまた」と手を振った。取引先だから、完全に無視はできない。その立場の弱さを、森山は分かっていないのか、分かっていて楽しんでいるのか。
その夜、またLINEが来た。
『今日はツンデレでしたね。金曜の夜なら空いてますよ』
ふみかは返信しなかった。

水曜の夜、電話で彼に、そのことを話した。
「あのさ、取引先の森山さんって人、何度も飲みに誘ってきて困ってるんだ」
「55歳の?」
「うん。断ってるのに、照れてるだけだと思ってて」
「……大丈夫? 上司に言った方がいいんじゃないか」
「まだ仕事の話の延長みたいに言ってくるから、大きくしにくくて。でも、私は行かないよ。当たり前だけど」
少しの沈黙のあと、彼は言った。
「うん、信じてる。でも、一線超えてきたらすぐ言って。迎えに行くし、一人で抱えなくていいから」
「ありがとう。そうする」
電話を切って、ふみかは少しほっとした。
彼に話せた。断り続けている。何もやましいことはない。
――この時点では、まだ何も始まっていなかった。
ただ、金曜の夕方、森山がまた会社に現れて「今日こそ」と笑った時、ふみかは知らなかった。
離れた場所から、その断られる姿を、誰にも見えない男・滑川たかしが、ずっと眺めていたことだけは。
彼氏は31歳。ビルの設備点検の仕事をしていて、休みは不規則なのに、ふみかと会う週1回の約束は、付き合って1年8か月、ほとんど欠かしたことがない。
「今日は古本屋のあと、銭湯?」
「うん。あと、その前にかた焼きそば。ずっと気になってた店」
「ふみか、本と紙と銭湯があれば、大体幸せだよな」
笑われて、ふみかも笑った。一緒にいるとよく笑う。結婚の話がまったくないわけじゃない。でも今すぐ同棲したいわけでもなく、このちょうどいい距離感が、二人には心地よかった。
古本屋で彼は、ふみかが手に取った1990年代の雑誌を覗き込んだ。
「また紙の本買うの?」
「紙に触れてる時間が、一番落ち着くんだもん」
「知ってる」
何かを押しつけてこない人だった。ふみかが夢中になっていると、隣で静かに待っていてくれる。だからこそ、ふみかはこの関係を大事にしていた。

月曜日。製本会社。
試作品を確認しに来た森山盛夫が、帰り際、また言った。
「榎並さん、今週どこかで食事でも。かた焼きそばの美味い店、知ってるんですよ」
「ありがとうございます。でも、仕事以外ではご一緒しないようにしてるんです」
「固いなあ。一度くらい、いいでしょう」
「すみません。本当に、そういうのは」
はっきり断った。けれど森山は傷ついた顔どころか、にやっと笑った。
「照れてるだけでしょう。本当は悪い気してないくせに」
「……してます。困ってます」
言葉を強くすると、彼はようやく「じゃあまた」と手を振った。取引先だから、完全に無視はできない。その立場の弱さを、森山は分かっていないのか、分かっていて楽しんでいるのか。
その夜、またLINEが来た。
『今日はツンデレでしたね。金曜の夜なら空いてますよ』
ふみかは返信しなかった。

水曜の夜、電話で彼に、そのことを話した。
「あのさ、取引先の森山さんって人、何度も飲みに誘ってきて困ってるんだ」
「55歳の?」
「うん。断ってるのに、照れてるだけだと思ってて」
「……大丈夫? 上司に言った方がいいんじゃないか」
「まだ仕事の話の延長みたいに言ってくるから、大きくしにくくて。でも、私は行かないよ。当たり前だけど」
少しの沈黙のあと、彼は言った。
「うん、信じてる。でも、一線超えてきたらすぐ言って。迎えに行くし、一人で抱えなくていいから」
「ありがとう。そうする」
電話を切って、ふみかは少しほっとした。
彼に話せた。断り続けている。何もやましいことはない。
――この時点では、まだ何も始まっていなかった。
ただ、金曜の夕方、森山がまた会社に現れて「今日こそ」と笑った時、ふみかは知らなかった。
離れた場所から、その断られる姿を、誰にも見えない男・滑川たかしが、ずっと眺めていたことだけは。